秋月藩士の墓、郡長正の墓(福岡県築上郡みやこ町)

秋月藩士の墓、郡長正の墓(福岡県築上郡みやこ町)。

名称 秋月藩士の墓、郡長正の墓
住所 福岡県京都郡みやこ町甲塚
駐車場 無(周辺)

秋月藩士の墓。説明看板より

秋月藩士の墓 この墓(向かって左)は、明治九年(1876)十月に起きた「秋月の乱」の戦死者十七名の墓です。明治初期、新政府による「秩禄処分」や「廃刀冷」といった諸政策は、かって武士であった人々には大変不満なもとでした。とりわけ、西日本では彼ら「不平士族」が武力による反乱を起こしましたが、秋月の乱もそういった士族反乱の一つでした。明治九年十月二十七日、旧秋月藩士二百余名は、肥後の新風蓮に呼応して挙兵。旧豊津藩士に同調を求める為、さらには長州の前原一誠と合流するため、同二十九日に豊津台地に入りました。しかし、秋月の期待とは裏腹に、豊津側が政府軍に協力したことで、圧倒的に劣勢とはった秋月側は、十七名の戦死者を出して撤退したのです。遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによって墓標が建てられました。それがこの「秋月藩士の墓」です。




郡長正の墓.

郡長正 郡長正は、会津藩の家老萱野権兵衛長修の次男として生まれました。明治元年会津戦争の敗北により、会津藩二十八万石は、青森県下北半島斗南藩に移されました。長正の父長修は責任をとって自刃、そのため萱野家は 断絶し遺族は「郡」の姓を名乗ることとなりました。藩の再興を目指した斗南藩は、長正ほか六名の若者を同じ佐幕派として官軍と戦った小笠原藩の藩校育徳館(現在の県立豊津高校)に留学させました。留学生たちは熱心に勉強に励みましたが、その中でも長正は文武にわたって特に優れていたといわれます。明治四年五月一日、長正は育徳館寮南の一室で切腹し、十六年の短い生涯を閉じることとなります。一説によると、ある時彼が故郷にあてた手紙の中に寮の食事に関することが書き添えてあり、それがたまたま他の生徒の目にふれて問題になりました。ついには会津武士の精神をなじられるまでになり、長正はその名誉を守るため切腹に及んだといわれいます。この墓は、誇りたく若い魂を抱き、遠く四百里離れた故郷会津へ正面を向けて立っています。

大変痛ましいことです。時代が違うとはいえ、藩の名誉の為、十六歳という若さで切腹するとは。
現在は、会津、豊津ともに交流があるそうです。



会津の方向を向いているのですね。