江田船山古墳

肥後古代の森
肥後古代の森は山鹿地区、鹿央地区、菊鹿地区、菊水地区、菊池地区
の5地区から構成している広大な史跡地帯である。

江田船山古墳は菊水地区にある。

名称 江田船山古墳
住所 熊本県玉名郡和水町江田
駐車場
料金 無料
備考 ウィキペディアより。この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートルあり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6 年)以降発掘が続けられ、豊富な副葬品が出土している。これらの多くは東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている。古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527〜8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓である。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳には通算三人が埋葬されたと考えられている。

残念ながら、資料館を見ずにここを出た。
江田船山古墳が有名なのは、ひとえに銀象嵌銘大刀にある。

象嵌銘大刀 (ギンゾウガンメイタチ)
解説 かつては「治天下??□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)とする説が有力となった。 この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。『宋書倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬?甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。


石人を展示している。

もとはこんな前方後円墳